りーにえんしーの闇鍋ブログ

書いている本人もよくわかっていないブログです。

山積と社会性、そして腕時計置き

一度溶けかけた雪が、1月末頃にまた降り積もったのを見た時は、今降っている雪が溶けるよりも早く山積している本たちを読んであげられそうだと思ったものだが、気がつくと雪はまた溶け始めている。それに反比例するように、部屋の足元には、本の山脈が随所に連なっている。これはもしかすると、来年ごろにようやく平地になるかもしれない。端的に言えば、本の買い過ぎである。

悪癖も ここまでくると 個性なりと 自分を説き伏せ いざ中古書店

これだから本の山々が増えるのである。そして、短歌の真似事は難しいと痛感する。そもそも、形式としてこれが正しい短歌なのかも定かではない。

閑話休題(いい言葉である)。一昨日からまた読書を始めたが、一日二冊が限界。どうも本の山脈というものは、楽しく登れるところと汗をかきかきしてようやく登れるところが、同じ山の中に何ヶ所もあるらしく、苦労させられる。

山によっても、踏み入れたいという気持ちが変わるのが、乙でもあり、悩みどころでもある。ノベリストやマンガーホルンという山々は踏破後の達成感や充足感が多いのに、参考書山脈や学術書ヶ岳という山々は、踏破しても達成感も無いときている。厄介である。前者はともかく、後者は登りたく無いが、登らざるを得ないのだから、厄介である。

そんな部屋の中の足元に連なる、本の山々を見ていると、出版年、出版社、国籍、ジャンル、サイズ、新品、中古品などの様々な垣根を越えて積まれているのが確認できる。

適当に積んでいるだけ、と言って終えばそれだけではあるが、積読されて山となる際、本には「本である」ということしか重要では無いのだなと思う。

本の山脈から少し離れた所にある本棚村の方を見れば、その違いは一目瞭然である。同作者の作品は必ず隣接して置かれ、やむを得ない限りは乱雑に置かれてはいない。「同作者の作品」や「ジャンルが統一されている」といった社会性が本棚村と、その中の本たちには存在している。

本の山々に置かれている本たちが社会性を持つ為にも、自分の為にも、本棚村の増築を早急に行わなくてはならないと思う。そのためには、早急にいくつかの山々を踏破しなくては。

 

追記:これだけの本があるなら、読書手帳でも付ければ良いのにと自分でも思うのだが、どうも食指が動かない。習慣付けの練習にもなりそうなものだが。