りーにえんしーの闇鍋ブログ

書いている本人もよくわかっていないブログです。

突発的、とりとめない

 文章を書くこと自体は好きだが、このブログのように、突発的に何か書こうとして執筆された僕の文章は十中八九とりとめのないものになっている。なので、書いている時には気にしない部分が、書き終えて読み返した後にはひどく醜悪に見えたり稚拙になっていることがままある。時折、おかしなこと書いているなぁと思えてむしろ面白くなる時もある。そういう意味では個人的には自分の文章を読み返すのは嫌いではない。

 気質的には計画や道筋を立ててこうした文章を書きたいな、と思う方ではあると思っていたが、寧ろ書きたいなと思ったらすぐに書き始めて、構成やテーマなどは書いていくうちに固まっていくという方が本来の気質なのかな、と大学時代から文章を書いて思うようになった。恐らく前者のような考え方(計画立てて何かする)は、高校時代までの学校での授業に対する宿題などで何か書く時に身に付けたものなのだと思う。国語など、文章を書く科目は、基本的に文章を書くための題材を読みながら解き進めていくので、「こう書く必要があるな」と思考しながら書く、即ち文章を組み立てて書くという計画性をこうして獲得した。それが日常的であったので、自分としては文章を書くことは計画を立てるということが重要なのかと考えていたし、それが自分の文章の書き方であるとも考えていた。

 しかし、いざ自由に何か書くと、文章を書く手は進むものの、それらに整合性が取れているとは言い難い内容になってしまう。言葉遣い以前に接続詞や文章のつながりがおかしいこともある。ひどいときには、意味をなさない言葉を1000文字以上書き連ねる、ということもある。このブログ内にもそのような記事は何件かある。我ながら恥である(先にも述べた通り、あまりに酷すぎて面白いものもあるので、基本的には削除や非公開にはしていないが)。

 こうした悲喜劇が起こってしまうのは、表現をしたいという気持ちが先走るばかりに、それを形として形成するための技術が伴っていないからなのだろうな、と思う。今回は文章にフォーカスをあてて書いたが、文章だけではなく、音楽や仕事など、さまざまな面で言えることだ。そういう意味では、僕は何かしらやろうと思ったら、まずそれに向けての勉強や学習が必要なのだと思う。型を知っているからこそ型破りができるように、やりたい気持ちだけで何かしても、前提知識が無くては形にもならないで終わってしまう。

 大学時代のように、また大量に時間が使えるシーズンが欲しいなぁ。この情熱と突発的にやろうとする力が、大学時代に湧かなかったのかがどうしてなのかと悔やまれる。そして今回もとりとめのない内容になっちゃったなぁ、とまた反省。テーマを決めて書く、というのもやってみようかしら。ただそれはそれでつまらなさそうなのが難点ではある。

読書感想文的な試み

 せっかく本を沢山買っているのだし、読んでその感想を書くという、読書感想文的な試みをやってみようかと思う。無理のない範囲でやっていくつもりなので、かなりのスローペースになるだろうが、大目に見ていただきたい。感想の文量もさほど多くないだろうし、構成も不明瞭だが、個人的にはやってみたいことなので、気張らずにやってみたい。

ツインズ

 ここ最近、というより今月に入ってから自分がもう一人いれば良いなぁと思うばかりの日々。というのも、楽しいことが立て続けにやってきているからだ。

 就職で東京に来て、はや半年を過ぎた。その程度あるにも関わらず、新たに獲得したコミュニティや交流の幅が昨年よりもグンと広がっているのは明らかだ。もちろん、東京の人口といった面を鑑みれば、それくらいはあって然りということもあるだろうが、それでも半年というスパンでこれほどまでに広がるだろうか。おかげさまで、この枠組みの中をイベントやライブを通して行ったり来たりして、非常に楽しい毎日である。

 しかし、弊害もある。知り合いになった方が多ければ多いほど、入ってくるイベントの情報は比例して増えるし、それらは同じ日程で行われることもある。そうなると、どちらへと赴けば良いものかと、どうしても悩んでしまう。初めてお会いする方を優先するべきか、それとも何度も会っている方へ行くべきか、はたまた自分がぱっと見で楽しそうな方に行くべきか。交流の枠組みが広がったことで、こうした悩みに何度も直面してきた。

 これの解決策はきっと無いだろうけど、切り替えてまた別の機会に行こう、というのが一応の正解なのだろう。だけど、その時にしか獲得できない楽しさがそこにはあったんだろうなぁ、と思うと、行けなかったことが悔やまれて仕方ない。できることなら全てに顔出しはしたいけど、分身ができたり双子でも無い限りは無理なんだろうなぁ。どこかにもう一人、暇をしていて都合のいい自分が居ないかなぁ。いるならば、そいつに行けなさそうな方を任せられるのだけど。

実家に帰省した際に、某コンビニエンスストアプライベートブランドのレモンサワーを飲んだのだが、以前飲んだ時よりも後味にケミカルさが強く感じられて、とてもではないが美味しくないと感じた。なぜこう感じたのだろうと考えたが、恐らく新潟にいた頃によく通っていたバーでお酒をそこそこ飲んでいたからではないか、と推測した。足繫く通っているうちに、いつの間にか舌のお酒を味わう部分が強化した、というか、ブランド舌に変化したということだろうか。

舌で言うと、コーヒーもそうだ。よく飲んでいるコーヒーのブランド以外のコーヒーを飲んだ際に、若干味にムラがあったり酸味が強すぎるように感じたりすることが増えた。コーヒーに関しては、商品ごとの味の違いのように、お酒とは若干違うところもあるかもしれないが、飲んでいるうちにブランド舌になっている可能性が高い。

とはいえ、未だに安い菓子パンやファストフードなども好きなので、全般的にブランド舌になっているというわけではない。

転換

 スーパーでよく見かける、精肉が野菜棚に置かれていたり、お惣菜がお菓子コーナーに置かれていたり、といった光景。

 あれを老婆心で元の棚に戻そうとする際に、その商品を掴んだ時点で、罪の意識は、置いた人物から自分に転換する、ような気持ちになる。

 元に戻そうという意思で掴んでも、側から見ればそれはそこに一度置こうとした不届者という認識になる。その時点からおそらく罪の意識の転換は行われている。それを恐れているから、みんな不自然な商品に手を出そうとしないのだろうか。

日常の中の妄想。

病は気から

 Twitterの方では何度か呟いてはいるが、数日前から風邪のような症状が身体に表れており、体調不良気味である。特に、喉はそれが顕著に表れている気がする。喉の痛み、咳、かすれ気味の声、思ったように出ないファルセット。これだけ喉に症状が出ると、僕は喉が健康のバロメーターなのだろうかと考えてしまう。

 風邪というと、「病は気から」ということわざがある。大雑把に言えば、気の持ちようによって、体調は良くなったり悪くなったり、という意味のことわざである。一見するとスピリチュアル的というか、胡散臭いというか、ことわざだから許されてる感があるというか、まぁ要するに「本当か?」と言いたくなる言葉である。しかし、ここ数日の体調不良で、僕は「病は気から」ということわざに対する信頼感(?)を感じるようになった。

 初期症状が身体に表れた時には「さして問題ないだろう」と思い、実際その日はそこまで体調が悪いようには感じなかった。しかし、咳や喉の痛みがじわじわと表れた際に「これはヤバいかもしれない」と思ってしばらくした途端、身体全体がダルくなったり、頭が冴えない感じがしたり、熱っぽさが内側からやってきたり、といった風に、病が全身に襲いかかるようにしてくるのを感じた。

 こうした心持ちの変化を客観的に考えると、これまたスピリチュアル的になってしまうが、思い込みの力というべき感じだ。そう考えると、「病は気から」ということわざは、一種の自己暗示なのかも知れない。病気にかかっても「大丈夫」と思うことができれば、病気をすっ飛ばすことができるし、逆もまた然りである。ことわざもなかなか侮れないものである。

 とはいえ、現代においてはことわざや言霊の力より、医学や科学の力を借りた方が無難ではある。なので、明日の午前中はまず病院に行くことにする。