僕と路上ライブ
就職で上京してもう1年と半年くらいが経過している。僕は上京してすぐに出会った方との出会いをきっかけに、路上ライブを始めるようになった。路上ライブは個人的にとても楽しい活動である。特異なケースなのかもしれないが、上京してから獲得した交友関係や都内の場所、お店についての情報は、体感6割が路上ライブでのものだ。会社の同期や先輩より、路上で知り合った方から教えてもらう、連れて行ってもらう居酒屋の方が圧倒的に多い。
それだけではなく、自分はシンプルな歌とアコギのみでの弾き語り形式で路上をしているので、鍛錬にもなる。実際、路上を始めた前後では発声やギターに関する技術も知識も格段に増えているし、自分の演奏にも生かせるようになっている。
何より、楽しいのだ。前述した演奏技能、知識の向上を感じられることも、もちろん楽しくモチベーションになるが、演奏時に道を行く人たちが自分の歌やギターに反応してくれることが最も楽しい。演奏を聞いて足を止めてくれる方、演奏に合わせて手拍子をくれる方、「この曲弾ける?」と聞いてくれる方……。そうした方々に向けて、自分の歌とギターで応えようとするのは大変難しい(実際、リクエストをもらっても知らない曲のために、弾けなくて心苦しくなることがある)が、試行錯誤しながら演奏して、拍手や笑顔になっていただけるととても嬉しいし、「次はしっかり覚えたり、より上手に弾けるようになりたいな」と思うのである。そのトライアンドエラーと、それを経て得た力を実感するのが楽しく、また路上をやろうかなと思う最大の動機でもある。
いやいや、何を綺麗事言っていやがる。結局は投げ銭目的だろう、注目を浴びたいだけだろう、というお言葉もあると予想し、以下のようなことも書き加えておく。
そもそも、僕は昼間に仕事をしているサラリーマンであり、路上ライブは趣味の範疇でしかないのだ。なので1ヶ月何かしらして、ある程度の節約を心がければお金にはさして困らないので、投げ銭はメインの目的ではない。せいぜい、演奏する場所の駅と住居の最寄り駅までの交通費(往復)くらいは貰えるといいな、の気持ちで大抵はいる。もちろん、投げ銭を貰えるのは嬉しいことに違いはないし、有り難く頂戴しているが、本質的には金銭が目的ではない。
注目を浴びたいということについては、全くと言って良いほど無い。むしろ注目されることは苦手だ。よほど慣れている場所じゃないと、人の目を気にしてしまって歌うどころじゃ無いと思う。宣伝したいことやオリジナル曲を販売・配信プラットフォームで配信していることもない。この記事を書いている時点ではライブの出演予定も一切ない。目立とうにも目立つためのことがない。第一、バンドマンでもシンガーソングライターでもない、しがないサラリーマンでしかないのだから、注目されても良いことはあまりないと思っている。
じゃあなぜ路上ライブをやっているのかと言われると、前述したように、楽しいからやっているだけだ、としか言いようが無い。路上を介して得たものや繋がりが増えていくこと、自分が演奏していたはずが、気がつくと道を行く一人の方がギターを演奏し、自分はそれに合わせて手拍子したりしているような、プレイヤーである自分と聞いてくださる方との境界線が曖昧な状態というのは、とても楽しい。それを目当てに路上をしている節があるなと、最近は思っている。なので、楽しいから路上ライブをやっているのだし、あくまでもそれは趣味だ、としか言えない。趣味程度以上のクオリティを出せている気概も無いし。
ここまで駄文ばかり書いているが、結論から言えば、路上ライブは楽しいからやっているものだ、というのが自分の中での認識である。季節も秋に変わり、過ごしやすくなってきたので、今週もまた路上ライブをしたいなー。
人生の歯車
なぁ、時々思うことがあるよ
あの時、自堕落から一歩引いて、何もしないより低頻度でも何かやろうとしていたなら
あの時、数回会った誰かとやる音楽をもっと肯定できていたら
あの時、アコースティックギターを買っていたら
あの時、ズルをしてでも一曲弾ききるという気持ちがあったなら
あの時、歌う勇気が予防接種の針が刺さるのと同じ程度に感じられたら
…………
できなかったこんなことをしていたら、僕の人生の歯車はどう回っていたのかなぁ、って
…………
でも多分
あの時、孤独の中で自分がしたいことを探そうとしたことも
あの時、孤独の中で無意味に遠くへと自転車を飛ばしたことも
あの時、エレキギターでも弾き語りはできると気づいたことも
あの時、孤独を話せる人たちに会えたことも
あの時、お酒が少しだけ好きになったことも
やってきたことで人生の歯車が回った方向に、艱難辛苦もあるけれど楽しいこともある、ということも否定はできないんだ
…………
なぁ、時々思うんだよ
人生の歯車が好転してるか否か、誰もわからないよな、って
過去よ、いや未来でも良い 現在でも
僕よ なぁ、僕よ
お前からは、僕がどう見えている?
言葉
言葉を書き連ねることを、なぜこうも繰り返したくなるのだろう。内省的でもあり、鬱憤の発散でもあり、息抜きでもあるような行為だからなのか。
人の言葉や文章を読むのは、なぜこうも面白いのだろう。他人の思想を覗き、自分には無いものを見つけるような、宝物を探すような行為だからなのか。
言葉とは、どうしてかくも柔軟なのだろう。時には人の傷を撫でる風のようになり、時には人の目を穿つ銃弾となる。話し手によってその形状は薬にも毒にもなる。
突発的、とりとめない
文章を書くこと自体は好きだが、このブログのように、突発的に何か書こうとして執筆された僕の文章は十中八九とりとめのないものになっている。なので、書いている時には気にしない部分が、書き終えて読み返した後にはひどく醜悪に見えたり稚拙になっていることがままある。時折、おかしなこと書いているなぁと思えてむしろ面白くなる時もある。そういう意味では個人的には自分の文章を読み返すのは嫌いではない。
気質的には計画や道筋を立ててこうした文章を書きたいな、と思う方ではあると思っていたが、寧ろ書きたいなと思ったらすぐに書き始めて、構成やテーマなどは書いていくうちに固まっていくという方が本来の気質なのかな、と大学時代から文章を書いて思うようになった。恐らく前者のような考え方(計画立てて何かする)は、高校時代までの学校での授業に対する宿題などで何か書く時に身に付けたものなのだと思う。国語など、文章を書く科目は、基本的に文章を書くための題材を読みながら解き進めていくので、「こう書く必要があるな」と思考しながら書く、即ち文章を組み立てて書くという計画性をこうして獲得した。それが日常的であったので、自分としては文章を書くことは計画を立てるということが重要なのかと考えていたし、それが自分の文章の書き方であるとも考えていた。
しかし、いざ自由に何か書くと、文章を書く手は進むものの、それらに整合性が取れているとは言い難い内容になってしまう。言葉遣い以前に接続詞や文章のつながりがおかしいこともある。ひどいときには、意味をなさない言葉を1000文字以上書き連ねる、ということもある。このブログ内にもそのような記事は何件かある。我ながら恥である(先にも述べた通り、あまりに酷すぎて面白いものもあるので、基本的には削除や非公開にはしていないが)。
こうした悲喜劇が起こってしまうのは、表現をしたいという気持ちが先走るばかりに、それを形として形成するための技術が伴っていないからなのだろうな、と思う。今回は文章にフォーカスをあてて書いたが、文章だけではなく、音楽や仕事など、さまざまな面で言えることだ。そういう意味では、僕は何かしらやろうと思ったら、まずそれに向けての勉強や学習が必要なのだと思う。型を知っているからこそ型破りができるように、やりたい気持ちだけで何かしても、前提知識が無くては形にもならないで終わってしまう。
大学時代のように、また大量に時間が使えるシーズンが欲しいなぁ。この情熱と突発的にやろうとする力が、大学時代に湧かなかったのかがどうしてなのかと悔やまれる。そして今回もとりとめのない内容になっちゃったなぁ、とまた反省。テーマを決めて書く、というのもやってみようかしら。ただそれはそれでつまらなさそうなのが難点ではある。
ツインズ
ここ最近、というより今月に入ってから自分がもう一人いれば良いなぁと思うばかりの日々。というのも、楽しいことが立て続けにやってきているからだ。
就職で東京に来て、はや半年を過ぎた。その程度あるにも関わらず、新たに獲得したコミュニティや交流の幅が昨年よりもグンと広がっているのは明らかだ。もちろん、東京の人口といった面を鑑みれば、それくらいはあって然りということもあるだろうが、それでも半年というスパンでこれほどまでに広がるだろうか。おかげさまで、この枠組みの中をイベントやライブを通して行ったり来たりして、非常に楽しい毎日である。
しかし、弊害もある。知り合いになった方が多ければ多いほど、入ってくるイベントの情報は比例して増えるし、それらは同じ日程で行われることもある。そうなると、どちらへと赴けば良いものかと、どうしても悩んでしまう。初めてお会いする方を優先するべきか、それとも何度も会っている方へ行くべきか、はたまた自分がぱっと見で楽しそうな方に行くべきか。交流の枠組みが広がったことで、こうした悩みに何度も直面してきた。
これの解決策はきっと無いだろうけど、切り替えてまた別の機会に行こう、というのが一応の正解なのだろう。だけど、その時にしか獲得できない楽しさがそこにはあったんだろうなぁ、と思うと、行けなかったことが悔やまれて仕方ない。できることなら全てに顔出しはしたいけど、分身ができたり双子でも無い限りは無理なんだろうなぁ。どこかにもう一人、暇をしていて都合のいい自分が居ないかなぁ。いるならば、そいつに行けなさそうな方を任せられるのだけど。
舌
実家に帰省した際に、某コンビニエンスストアのプライベートブランドのレモンサワーを飲んだのだが、以前飲んだ時よりも後味にケミカルさが強く感じられて、とてもではないが美味しくないと感じた。なぜこう感じたのだろうと考えたが、恐らく新潟にいた頃によく通っていたバーでお酒をそこそこ飲んでいたからではないか、と推測した。足繫く通っているうちに、いつの間にか舌のお酒を味わう部分が強化した、というか、ブランド舌に変化したということだろうか。
舌で言うと、コーヒーもそうだ。よく飲んでいるコーヒーのブランド以外のコーヒーを飲んだ際に、若干味にムラがあったり酸味が強すぎるように感じたりすることが増えた。コーヒーに関しては、商品ごとの味の違いのように、お酒とは若干違うところもあるかもしれないが、飲んでいるうちにブランド舌になっている可能性が高い。
とはいえ、未だに安い菓子パンやファストフードなども好きなので、全般的にブランド舌になっているというわけではない。