りーにえんしーの闇鍋ブログ

書いている本人もよくわかっていないブログです。

久しぶりに

どうもお久しぶりです(n回目)

仕事を始めて忙しくなったり、ギター練習などにふけっていたりとで中々時間が取れていなかったのですが、ふっとこのブログのことを思い出したので、また暇を見つけて書き始めようかと思います。とりあえず、書きたいことは別記事にするので、今回の記事はご挨拶程度にさせていただきます。

徒然なるまま日記 その2

この不定期日記のタイトルを「徒然なるまま、東京日記」にしようかしら、と検討中。

 

※今日ではなく昨日のことを書くことを、初めに注意しておく。「今日は」といった記述が多くなるが、書いている時は今日起こった風に書いてしまうので。何せ「日記」なので。

 

2023年3月27日(月) 霧雨のち曇り、若干晴れ。

 

6時起床後、二度寝をして9時に起きる。来週からは働くのだから、二度寝はしたくないものだが。東京に帰って来てから、悪天候が続くように感じる。雨や風が続く日が続いてしまっては、せっかく東京で見たいと思っていた桜があっという間に散ってしまうのではないだろうか、という不安を覚える。

とりあえず今日は14時から用事があるので、それまでに家の整理整頓や、ほっぽっておいたゲーム機やレコーダーなどの配線整理を行って時間を潰す。必死になって配線整理を行っているうちは何も思わないが、しばらくすると「もっとここをこうすれば…」と思ってしまうのが配線というものである。書いていて、そうした気持ちがうっすらと襲ってくる。整理が終わった後、ここ数週間ゲームはスマホゲーム(それも一種類)しかしていないことに気付く。プレイする相手もいない。まとまったお金があれば本かギター関連のものを買ってしまうので、ゲームの購買意欲は下がりつつある。…資金難やモノの過多が極まってきたら、いずれ手放すべきかもしれない。というか、テレビもレコーダーも使わなくなっている気がする。ゲームをしなくなったり、DVDを見なくなったりしたら尚更だ。

 

14時。予定通り、不動産仲介業者から紹介された保険・金融アドバイザーの方とお話をする。女性の方だった。「22歳に見えないくらい落ち着いているね~」と言われたが、当の本人はそうは思わないので、「はぁ、どうも」という返事しかできなかった。ジョハリの窓ってやつかしら。お金のことも、保険のことも、資産運用も、画面の向こうにいる方のことも、何もかもがちんぷんかんぷんだったので、とりあえず半信半疑、話半分で聞いていた。話の後半で、宿題を出される。一つ、会社のこと(主に福利厚生)を知る。二つ、手取りと額面での給料を知る。三つ、月ごとの出入金のめどをたてる。「最後にアンケートが届くと思うので~」と担当の方はおっしゃっていたが、午後10時になってもそれらしきメールやメッセージは届かなかった。こうしたどっちつかずの状態はあまり精神衛生に良くないなと思う。そして、自分も気を付けねばならないと思う。

 

15時前。雨も止んでいたので、散策をしに行く。今住んでいる家の付近に「哲学堂公園」なる公園があることを知り、ちょっとこの町が好きになる。西周西田幾多郎が歩いたりしたんだろうか、と思ってみる。この予想は、多分ハズレている。ここ数日の雨風で桜は大丈夫だろうかと思っていたが、存外桜は咲いており、晴れやかな気分に。桜並木を通り過ぎたあと、シャッフル再生で聴いていたOasisの "Live Forever" が流れ、これを聴きながらさっきの道を通ったら気持ちいいだろうなと思いつつ、ぐんぐん歩く。

 

確か17時ごろ。スマホで位置を確認すると高円寺に着いていた。家の周辺をぐるりと回るつもりだったが、誤算だった。まあ明日は特に用事もないので、焦って帰る必要は無い。少し進んで、商店街と思しき通りに差し掛かった。人の通りも多く、活気にあふれていたので、吸い込まれるようにして入っていった。人生で体験してきた商店街はどこかしこもシャッターで閉じていたので、異世界的であった。食料品店、古着屋、飲食チェーン店、バー、雑貨屋、個人経営のカフェ……。狭い箱の中に様々な楽しみがぎっしりと詰まっている感じがする(アソートパックのようなものかしら?)。商店街とはこういうものか、と改めて思う。入り口付近に古書店があったので、ふらっと立ち寄る。店の前の棚に丸谷才一星新一の文庫本があったので、即購入。ここ最近のことだが、丸谷才一は自分と同じ出身地の作家らしいことを知った。なので、出来る事なら本は買うようにし始めた。2冊で150円だった。

 

大体18時ごろ。高円寺駅に到着。路地裏を通っていると、美大生たちの展示会が行われていたので、のぞいてみる。うろ覚えなので適当になってしまうが、都市の夜景を結晶のように映した写真?と、セサミストリートっぽいカートゥーン調のキャラクターたちがいる未来社会の絵画が個人的には印象的であった。特に前者、どことなくビスマス結晶のような幾何学模様と煌めきが印象的で、作品の中では一番目を奪われた。こうした作品たちを「ぜひ買いたいのですが…」と言えるような人物になるのに、あとどれくらいの年月を要するのかしらということと、この展示会を行っている人たちが自分よりも年下なのだということに、むなしさと羨望を抱いて、展示会を後にする。

 

19時。中野駅に到着。後はまぁ帰るだけなので、とくに寄り道はせず家に帰る。途中、踏切のトラップにひっかかり、焦った。田舎者はこうして淘汰されていくのかしら。帰宅後、引っ越しの段ボールが我が物顔で寝そべっている部屋を見て、明日も整理整頓だなと思いながら夕食。それが済んだらやることもなかったので、ギターを弾く。Museの "Time is Runnig Out" を覚えたいと思い弾いてみるものの、サビしかまだ満足に弾けなかった。でも好きな曲を弾いていると、満足不満足に関係なく継続意欲が湧くのだから不思議だ。

 

寝る前に以前購入した額賀澪さんの「拝啓、本が売れません」を読む。年齢が割と近い方が執筆しているからか、面白く読める。と同時に出版業界や作家の現状や生存戦略を垣間見て、憧れる場所の闇も知らねばならぬなと思う。一旦読むのをやめて、歯を磨きながら今日思ったことをこうして日記として書き起こす。

 

おまけではないが、書き記すスペースがないので散策中、ふと思ったことを最後に持ってきて書き記す。銀行口座から小銭のやり取りをするのに手数料がかかるようになってから、どれくらいの人が小銭を伴う口座取引をするようになっただろうか。自宅の貯金箱に貯めておくとして、貯金箱が増えたら置き場所に困りそうだ。じゃらじゃらと支払いに使うのも手間だし、使用枚数制限だってある。となると、小銭の行く先は募金箱なのではないだろうか。しかし、もし仮にそうしたことが理由で募金額が増え始めていたとしたら、それは良心からくる行為なのか、単なる吝嗇性なのか、判別が付かなくなるような気がする。後者の場合、手数料を惜しむ人がやすやすと募金はしない気がするが、損得勘定で募金した方が結果的にプラスだと考えたりするのだろうか。……と考えたが、そもそも吝嗇家は小銭も買い物で使うだろうな。

徒然なるまま日記

2023年3月19日(日) 曇りのち晴れ

 

母親と某デパートに行き、スーツを購入。うっすらと縦縞が入っていたスーツが良いなと思ったが、サイズが合わずあえなく断念。が、似たようなスーツを見つけたので、それを購入。概ね満足。試着のたびに、スーツは良いなぁと感じた。

 

正午過ぎに両親と親戚宅に挨拶回り。移動中、「𣗄代(たらのきだい)」という地名が書かれた看板を見つける。読み方は知っていたが、漢字表記に引っかかり、軽く調べてみたところ、「𣗄」という漢字はこの地名でしか使われていない漢字らしい。大雑把というか、おおらかというか、贅沢というか、寧ろケチというか……、といった気持ちになった。

 

本日から小松左京氏の『果しなき流れの果に』を読み始め、大体半分くらいまで読み進めた。以前から小松左京氏の名前は知っていたものの、今までに手に取ることはなかったので、何となくで読んでみたが、とても面白く、噛り付くように読み進めていた。話の構成や展開もさることながら、作品の中に数多く散りばめられている、渾然一体となった幅広い学問知識に感心と驚きの連続であった。

同作品の中で、宇宙人が登場するシーンに差し掛かり、その部分を読んでいるうちに、ある疑問が浮かんだ。地球外生命体の最上位的存在として「宇宙人」が挙げられるが、存在するかも分からない、未だ誰も見たことがない地球外生命体の、その最上位が、「宇宙人」という「人型の生命体」という確証、どうして持てるのだろう。「人型」でないと最上位には君臨できぬと誰が決めつけたのだ。スライムのようなゲル状の生命体でも、知能が獲得できないはずはないし、地球の人類たちが構築してきた高度な文明に負けず劣らずの文明を創り上げられるかもしれないではないか。いかなる環境でも「人型の生命体」が最上位に存在するというのは、地球に「だけ」生息する(かもしれない)人類の思い上がりではないか?

仮に地球外生命体にも神がいて、まさか、その姿が地球の神々と全く同じ、ということはあるまい。これを書いている時に、旧約聖書の「神は自分の姿に似せて人間を作った」という文章を思い出すが、うまくまとまらないのであまり触れない。作品に関しては、とりあえず今月中には読み終えたい。

 

Twitterでも呟いたが、lo-fiな音楽をぼーっと聴いていた時に、低音が耳から足先にかけて、じ~~ん、と身体に沁み渡っていくのを感じて、心地よかった。この心地よさは、狙ったり待ったりして獲得できるものではない。全身は程よく脱力しつつ、しかし、脳には機微には気付くことのできる冴えが必要だ。ふっとやってくるものを、力んだように意識して捕まえようとするのではなく、眼前にやってきて初めて気付き、そっと包むようにしてこそ、獲得できる、ような気がする。

……と、大層にも上記のようなことを感じた際には考えたものだが、今思えば寒さからくる震えだったのかもしれない。

 

笑点』を視聴。話だったりこのブログの記事にオチを付けたがるのは、昔から笑点大喜利をみていた名残なのかもしれない。

 

夕食。メニューは父親お手製のボンゴレロッソ(恐らく)。帰省して父親が作る料理を見るたびに、父親並みに料理に熱量を注いだことは無いな~と毎度思う。

 

風呂から上がり、やることも無いので、手すさび的にこの記事を執筆。

 

明日以降も執筆するかは、不明である。

ここ数日のこと

 一昨日、昨日にかけて、また寒さが少し強まった気がする。眠る時間が遅いのもあるが、朝起きるのが非常に辛くて仕方ない。それと、キッチンが裸足だと凍傷になりそうなくらい冷え冷えになるのも、勘弁願いたい。そのせいで、以前、冬の夜中、冷え切った床を裸足で歩き、そのままお湯を沸かすのを待つという奇妙な状態に陥ってしまった。その上、沸かしたお湯で淹れたコーヒーで火傷をする始末。踏んだり蹴ったりである。

 冬来りなば春遠からじ(英国の詩人、シェリー氏の『西風の賦』という作品からの一節らしい。初めて知った)、という有名な言葉があるが、かくも冬が長引いてしまうと、春の訪れは未だに感じられない。ここ数日は、冬長引けば春遠ざかり、といった状態。早く春の訪れを感じられるくらい、暖かい日がやって来てほしいものだ。

 しかし、雪国出身だというのに、いつからこんなに寒さに弱くなってしまったのだろう。自主的な行動が出来るようになった分、雪かきやら降雪時の外出やらを控えていたからなのかもしれない。高校までは名前と存在しか知らなかったが、今やすっかりこたつは友達である。冬限定の。あとは、痩せたのもあるのかしら。確かに忙しくて痩せたが、あんまり健康的な痩せ方では無いから、おすすめはしない。

 さて、個人的なことではあるが、もう少しで新潟から離れる日がやってくる。引越し会社からいただいた引越し用の段ボールに荷造りをし始めたが、ピッタリと荷物を収めることができると、なんとなくパズルゲーム的快感を得られて快い。しかし、部屋の中を段ボールが埋め尽くすという、実家以来の光景が広がりつつある。

 現段階で本や雑誌などの書籍類を中心に荷造りをしているが、我ながら自分が所持している本の多さに驚いている。引越し会社からいただいた段ボールのうち、1/4が書籍である。うずたかく積もっている段ボールのうち、1/4が書籍と知ったら、搬入をする引越し会社の方々も、びっくりするのでは無いだろうか。申し訳ありません。

 あとはあるあるなのかもしれないが、本棚を整理していると、先日買ったばかりの書籍が既に買ってあることが判明するという、些細な悲喜劇が見受けられる。まぁ大抵は中古本なので、「ありゃ」程度に思うが、本棚の整理整頓は必要だなぁと改めて実感する。そして、本棚が欲しくなるのである。

 ここ数日のことをなんとなしに書いてみたが、特にまとまりがあるわけでも無い、単調な文章。しかし、長く書く練習にはなるので、たまにはやってみてもいいかなと思う。もう少し何かしら書いても良かったが、とりあえず今回はここで切り上げることにする。引越し作業の続きを行わなければならないし。

ダブりんぐショック!

よく覚えていないまま買ったがために、既に持っていたものをまた買った、つまりダブった、ということはよくある話だが、夢野久作の『ドグラ・マグラ』でそれを体験した時は、何とも言えない気持ちになった。

 

どうでも良いが、思春期に厨二病的な憧れから『ドグラ・マグラ』を買い求めるために本屋に行き、角川文庫版の表紙を見てショックと妙な恥ずかしさを味わい、レジに持っていくのをためらった人、日本に何人くらいいるのだろうか。

 

追記:まず、なぜバレンタインデーにこんなことを書いてしまったのか、という若干の後悔が一つ。次に、後に挙げた角川版『ドグラ・マグラ』だが、ブックカバー等を付けずに電車内や公道であれを読んでいた場合、公然猥褻になってしまうのだろうか。この疑問、公共の場におけるアヘ顔Tシャツの是非と似ている気がする。

山積と社会性、そして腕時計置き

一度溶けかけた雪が、1月末頃にまた降り積もったのを見た時は、今降っている雪が溶けるよりも早く山積している本たちを読んであげられそうだと思ったものだが、気がつくと雪はまた溶け始めている。それに反比例するように、部屋の足元には、本の山脈が随所に連なっている。これはもしかすると、来年ごろにようやく平地になるかもしれない。端的に言えば、本の買い過ぎである。

悪癖も ここまでくると 個性なりと 自分を説き伏せ いざ中古書店

これだから本の山々が増えるのである。そして、短歌の真似事は難しいと痛感する。そもそも、形式としてこれが正しい短歌なのかも定かではない。

閑話休題(いい言葉である)。一昨日からまた読書を始めたが、一日二冊が限界。どうも本の山脈というものは、楽しく登れるところと汗をかきかきしてようやく登れるところが、同じ山の中に何ヶ所もあるらしく、苦労させられる。

山によっても、踏み入れたいという気持ちが変わるのが、乙でもあり、悩みどころでもある。ノベリストやマンガーホルンという山々は踏破後の達成感や充足感が多いのに、参考書山脈や学術書ヶ岳という山々は、踏破しても達成感も無いときている。厄介である。前者はともかく、後者は登りたく無いが、登らざるを得ないのだから、厄介である。

そんな部屋の中の足元に連なる、本の山々を見ていると、出版年、出版社、国籍、ジャンル、サイズ、新品、中古品などの様々な垣根を越えて積まれているのが確認できる。

適当に積んでいるだけ、と言って終えばそれだけではあるが、積読されて山となる際、本には「本である」ということしか重要では無いのだなと思う。

本の山脈から少し離れた所にある本棚村の方を見れば、その違いは一目瞭然である。同作者の作品は必ず隣接して置かれ、やむを得ない限りは乱雑に置かれてはいない。「同作者の作品」や「ジャンルが統一されている」といった社会性が本棚村と、その中の本たちには存在している。

本の山々に置かれている本たちが社会性を持つ為にも、自分の為にも、本棚村の増築を早急に行わなくてはならないと思う。そのためには、早急にいくつかの山々を踏破しなくては。

 

追記:これだけの本があるなら、読書手帳でも付ければ良いのにと自分でも思うのだが、どうも食指が動かない。習慣付けの練習にもなりそうなものだが。

嗜好の麻痺

今週(この記事を書いている段階では先週だが)、またたくさん本を買った。中古本が大半とはいえ、恐らく3000円は使ったのではないだろうか。以前に以下のような記事を書いたばかりで、その中でも悪癖だと言っているのにも関わらず、である。もはや、直すにはどうしようもない領域に至ってしまったのかもしれない。そしていい加減本棚をもう一つ買うべきだとつくづく思う。

i2-a4-n.hateblo.jp

今回は小説やエッセイだけではなく、マンガも買った。以前から読みたかったものがある程度まとまって売っていたのと、全巻100円だったこともあって(中古書店万々歳である)、気がついたら買い物カゴに入れていたのであった。無意識のなせる技である。

以前、何かのマンガエッセイ?的なもので「買い物カゴを持っているといらないものも余計に買ってしまうから、買い物の際にはなるべく買い物カゴは持たず、必要最低限の欲しいものだけを、両手で持てる分だけ買う」といった独自のライフハックを述べていた方がいたが、なるほど確かにと思う。その時、買い物カゴにお目当てのマンガを入れたものの、「まだ他に何か……」と探していた自分がありありと思い出されるからだ。

とはいえ、幸か不幸かそれ以上は欲しいものがなかったので、その時はそのマンガだけで買い物は終えることができた(蛇足でしかないが、自分の趣味嗜好のための買い物であるのだから、思うが儘に買ってもよいはずなのだが、「終えることができた」と思ってしまうのは何故なのか)。

閑話休題。マンガの話に戻す。今回買ったマンガは平野耕太氏作の『ドリフターズ』である。暴力的、グロ、(少々)性的に見える部分があるため好みは分かれると思うが、ギャグや日常の場面、戦術や兵器に関する解説なども描かれており、それらによって程よく中和されていて個人的には非常に面白いと感じる作品である。既に2周目を終えたが、3周目に入りたくなる面白さである。

この作品を読んでいて何となく思ったことだが、ここ最近はエロやグロ、特にグロに対して否定的でなくなっている気がする。

エロに関しては以前から何度も触れているものであるし、何だったら小説にもそのような描写は何度も登場しており、幾度となく目を通してきたため、度を越えたものでない限りは何とも思わなくなっていた。しかし、グロに関しては別である。

自分、というより大概の方々はそうかもしれないが、グロへの耐性が殆ど無いため、そのような描写があるだけで目を通すのを忌避していた。今でこそ笑えることだが、『ダンガンロンパ』というゲームの一部シーンを見て「このゲームはやらねぇ」と思った位である。こうしたグロへの忌避観念が根付いた原因は、恐らくであるが、小~中学生の頃にネット上で見たビックリ系フラッシュ動画のビックリ画像がグロさ極まるもの(形容しようがないものであった、というより形容したくない)だったのと、愛読していた星新一氏の作品にグロテスクな描写が殆ど無かったというのが考えられる原因である(後者に関しては、星新一氏のWikipediaの方に以下のような文章があったので、彼のWikipediaのリンクとともに引用させて頂く)。

激しい暴力や殺人シーン、ベッドシーンの描写は非常に少ないが、このことについて星は「希少価値を狙っているだけで、別に道徳的な主張からではない」「単に書くのが苦手」という説明をしている。(引用元:星新一 - Wikipedia

こうして固まり構築された「グロテスク大嫌い」という気持ちが融解し始めたのは、何がきっかけなのだろうか。いくつかの要因があってこそのことだと思うが、小説、マンガ、アニメ、ゲーム、映画など、色々な媒体で様々な作品に触れたことが大きな要因であるのは間違いない。

前述した『ダンガンロンパ』もある程度経ってから普通に見ることができたし、何だったらアニメも見た位である。ここ最近のことで言えば、筒井康隆氏の小説がそこそこグロい描写が多いものの、「グロいなぁ」と思うくらいで普通に面白く読み進めることができたり、『fallout4』という頭と身体が(永遠に)サヨウナラしたり内の臓がコンニチワしたりするゲームをやっていても、「面白いなぁ」と感じたりと、微々たるものではあるが、グロへの耐性が付いている気がする。というより、22歳にもなって耐性が付いていない方がおかしいのかもしれないが…。

こう聞くと、グロ全般そこそこいけるようになったのか、と聞かれそうだが、映画『SAW』のようなじわじわくるタイプのグロにはまだ耐性が無い。グロの中でも、ああいうのは耐性が付かなくていいと個人的に思っている。それくらい嫌である。

相も変わらず支離滅裂な文章を長々と書いたが、要するに趣味嗜好の幅が広がりつつある、というだけの話である。あと、久しぶりのマンガは面白かった、という話でもある。

あっという間に『ドリフターズ』を読んでしまったので、また何かしらマンガが欲しいなぁと思いつつ、積み上げている他の本たちも読まねば、という状態の現在。

こう書いておきながら、再来週辺りにまた別のマンガを買っていそうであるのは否めない。