りーにえんしーの闇鍋ブログ

書いている本人もよくわかっていないブログです。

寝床

※今回の話には、若干の鬱要素や危険思想が含まれているので、少しだけ閲覧注意であるということを先に述べておく。また多少の脚色も加えているので、全てが全て真実ではない、ということも理解されたい。

 

レポートや課題を終えて、時間は午前1時を回っていた。とはいえ、手を付けるのが遅かったのと、提出期限に余裕があったので、焦りは感じてはいなかった。そろそろ寝ようかと思い、歯を磨き、用を足し、いざ寝床につく。この時期は、勉強机兼生活用テーブルとして使っているこたつが勉強机兼生活用テーブル兼布団に変化する。寒いのに億劫さが上乗せしてしまい、いつもこたつで寝てしまうからだ。寝づらさや身体に悪いのではという懸念もあったが、楽な体勢を見つけてからはもう慣れたものである。

電気を常夜灯に変え、30分のおやすみタイマーを設定。YouTubeでゆったりした音楽を小音でかけ、さぁ寝ようと目を閉じる。……しかし、眠りにつくことができない。先ほどコーヒーを飲んだこともあるのだろうが、目を閉じてしばらくして、頭の中に何かうごめくものを感じたからだ。それが気になれば気になるほど、まどろみからは遠ざかってゆき、むしろ覚醒にいざなわれてゆくのだ。頭の中でうごめくもの、それは、ひとつの、このような不安だった。

__このまま漠然とした未来へと、のんきに歩いているだけで、自分は大丈夫なのだろうか。

いつもの自分であれば、こんなことを思いついても一笑に付すだけで終わらせていた。しかし寝床についた自分は、いつものように振舞えなかった。不安。漠然とした不安。それが頭に根を張って芽を出し、茎が太くなり、そこから枝が伸びるように不安が膨らんでいくように、うごめきが大きくなってゆく。次第に、眠ることよりもそれが気になって仕方なくなる。寒いはずなのに汗が滲み、風邪でもないのに震えてくる。

なぜだ。なんでもないのに。なぜだ。落ち着け。なぜだ。なぜだ。

自身に言い聞かせる言葉が、かえって不安を増幅させる。不安の枝は脳や思考にまとわりつき、鬱や虚脱を感じさせる。逃れようとしてこたつ布団の中に全身を隠すようにして、若干力強く目をつぶってみても、眠りという逃げ道には辿り着けるわけがなかった。それどころか、些細な不安がこうも大きくなるのかという怯えや、まだ朝日が来ないであろう午前2時前への苛立ちといった、負の思考が次々と湧いてくる。

不安が消えずにグルグルと頭や身体を駆け巡る。自分の思考で始まった不安と分かっているからこそ、情けなさ、不甲斐なさ、悔しさ、辛さをひしひしと感じてしまう。

嫌だ。寝かせてくれ。イヤだ。逃がしてくれ。イヤダ。イヤダ。

不安の作用なのか、眠ろうと_いや、逃げようと目に力を入れたからか、涙が零れ落ちていく。月並みな表現だが、恐らくこの時点で心は折れてしまっていたのだろう。しかし、まだ続く闇の中で、精神的な衰弱は終わらない。蝕まれていく精神や思考の脆さに我ながら嫌気が差し、自己嫌悪する。それが、精神や思考を弱めて……。見るも無残な負の循環であった。

その循環の果てに、ひとつのことが浮かぶ。死だ。死が救済などとはこれっぽっちも思っていないが、逃れる手段にはなりうるという、今思い返せばひどく幼稚な考えが浮かんでいた。そこからは死のための道筋を考えていた。ハサミか、包丁か、マフラーか、ギターのシールドか、熱湯か、20キロのダンベルか、海か、発狂か、それとも。

くだらない思いつきばかりが浮かんではたゆたい、不安と並走し始める。そんなことをする力や意志なぞ、これっぽちもないくせに。そうして、また自分が嫌になり、涙が出てくる。先ほどのとは違い、流れては止まらない。生理現象にさえ嫌気がして、もうどうしようもなくなっていた。八方塞がりだった。甲羅の中にうずくまる亀だった。浦島太郎に出てくる亀も、こんな風なじわじわした痛みを感じていたのだろうか。

止まらない涙をそのままにして、悔しさと恥ずかしさで目を閉じる。闇ばかりの現実に目を向けたくなかった。目を閉じても闇なのに。そんなことを考えられる頭ではなかった。

…………

なんだか眩しい。目を開く。スマホを確認すると、午前9時半を過ぎていた。いつからかは分からなかったが、寝ていたということは明らかであった。なんだか、やけに頭が痛かったが、数時間前の不安は薄れていた。

汗まみれの身体や顔を洗おうと、風呂場へ行く。鏡を見ると、そこには不安に憑りつかれる前と変わらない、何も考えていないようなのんきさをたずさえている、見慣れた自分の顔があった。

シャワーを浴びながら、件の不安を思い返す。あれはいったい何だったのだろう。そう考えてみても、これという結論は導かれなかった。しかし、これかもしれない、というひとつの考えが浮かんだ。それは、あの不安が自分の中にある未来への不安だったという考えだ。先が見えず、長い時間(体感としては結構長かった覚えがあった)じわじわと苦しめられたあの不安。それは漠然とした将来や変化し続ける未来に対して、飄々として、さもどうでもよさげにしていた自分が、どこかでかすかに感じていた不安をきっかけとしていたのではないだろうか。そんな、夢判断のようなことを考えていたが、フロイトの本はペラペラとめくっただけでろくに中身を覚えていないし、誰にでも導かれそうな単純な結果なので、夢判断としては赤点の内容である。しかし、そういうことではないかという風な個人的な結論を出した。不安の再発防止のために、落ち着きたかったのかもしれない。

 

あとがき

今回のこの話は、7割の実体験に3割の物語性というフィクションで多少脚色を加えたものである。なぜこのような話を書いたかというと、いつものような興味本位と一日一記事、といった日記目的での更新のためという意味もあるが、一番は「自戒」という意味合いが大きい。あの不安がもたらそうとしたことは、従来のように「何とかなる」的思考ではなく「何とかする」的思考で未来に目を向けていかないと、またあの不安がやってくるぞ、という警告や注意喚起だという風に今も思えて仕方がない。だからこそ自分への戒めとして、頭に残っているうちに書き起こした、というわけである。

オチも特にない、無駄に長く奇妙な話であったが、もしここまで読んでくださった方がいたら、この場で感謝を申し上げたい。それでは。